今回は、あるお母さんについての思い出を語らせて頂きます。

その方は、私が勤めていた英語専門塾において入会のための体験授業を実施していた時、中学校に入学したばかりの息子さんを連れて来られたお母さんでした。

そのお母さんはとてもにこやかで感じのよい方でしたが、お話を聞いていると息子さんの勉強に対してはかなり厳しく考えておられるようで、中学からスタートする英語の授業で良い成績をとらせたいというような内容を熱心に語っておられました。

しかし当の息子さんはその気もないのにただ連れて来られたという様子で、一通り体験授業を終えた後、感想を聞いたり意志を確認しても、乗り気ではない感じだったので、私も入会を促す気になれず、もし息子さんが自ら入会を希望すれば後日改めて連絡をしていただけるようにお伝えして、その日は帰っていただきました。

それから1週間程経って、そのお母さんから塾に連絡が入ったのですが、やはり息子さんには入会する意志がないとのことでしたが、驚いたことに、お母さん自身が入会したいとおっしゃったのです。

息子さんへの体験授業を見ているうちに、自分が勉強したくなったとのことで、学生時代英語が好きで頑張って勉強していた時期があったのですが、途中でやめてしまっていたことがずっと心残りになっていて、その思いに火がついたという感じのお話でした。その英語専門塾で私は大人のクラスも担当しておりましたので、そのお母さんに入会していただくことになりましたが、高校初級くらいのレベルからの授業開始となりました。

やる気がすごくあっての入会でしたので、毎回授業は楽しく、かつ、とても熱心な感じで進行していきました。そのような中で、私とそのお母さんの間に次のような会話が生じました。(会話の中の○○さんはそのお母さんのことです)

私: 「○○さんは、いつも明るくほがらかで優しそうに見えますが、お子さんの勉強に関しては厳しい方ですか?」

お母さん:「そうですねえ。息子には『お母さんは外と家とでは表情が全く違う。僕には鬼や。』なんて言われます。」

私: 「なるほど、それだけお子さんの勉強のことが心配なんですね。ところで○○さん御自身は、ここでの勉強の方はどうですか?かなり良く出来るようになっていますが、余裕が出てきたのではないですか?」

お母さん:「いいえ、やはり難しいです。でも難しいことがだんだんわかるようになることが、とても楽しく感じられます。」

私: 「それは素晴らしいですね。でも、もし今のやり方と違って、1回の授業で学習したことを、次回には必ず出来るように、しっかり復習するようにと指示を出され、その結果を毎回テストで試されるような方針になったとしたら、○○さんは、どうですか」

お母さん:「・・・それでは、続かないと思います。今のように、自分のペースで出来るようになる勉強だから楽しく続けられるのだと思います。」

私: 「本当にそうだと私も思います。でもお子さん達、中学生はどうでしょう。1回授業がある度に宿題がたくさん出され、チェックテストが頻繁に入った上、定期的に大きなテストがあり、その決められた期間の中で成果を出すように追い立てられている状況ですよね。」

お母さん:「・・・そうですね。私なら、今のように楽しく勉強できませんね・・・。」

10年近く前のことですので、おおよその振り返りとなっていますが、大体以上のような内容のやり取りでした。そしてこのようなやり取りがあった何回か後の授業で、そのお母さんは、もう息子さんに勉強するように厳しく言うことはせず、息子さんが勉強だけでなく、色んなことに自分のペースで頑張る姿を応援したいとおっしゃいました。私はそのように話されるそのお母さんのいつも以上に明るい素敵な笑顔を見て、とても嬉しい気持ちになったのを強く覚えています。

またそれからしばらくたったある授業で息子さんの話題になった時、勉強するように、もう追いたてていないにもかかわらず、息子さんの学校での成績は同学年の中でかなり上位であり、息子さんの元々の優秀さに自分は気が付いていなかったというようなことを、そのお母さんは嬉しそうに語られました。しかし同時に、そんな息子さんに関する少し気がかりなこととして、成績の良いことをほめてもあまり喜ばず、「上には上がいるのだから、これで良いと思わず、もっと頑張る必要があるんやろ、お母さん」などと、発言することを挙げられていました。おそらくそれは、そのお母さんが勉強のことで厳しく息子さんに接していたとき、息子さんによく言っていたセリフなのだろうと私には思われましたが、このようなことからも、とにかくそのお母さんの息子さんに対する考え方や接し方が180度変わったのだということが、よく実感されました。

そしてこの後私にとってさらに興味深い展開が、このお母さんを待ち受けていました。

それは、息子さんへの心配や厳しい思いを手放されてからも教室では楽しそうに英語の学習を続けていたお母さんでしたが、1年近くたった頃、英語の勉強は楽しいのでずっと続けたいのだけれど、今まで長くパート勤めしていた医療事務の仕事場を辞めて、同種の新しい職場に移るために就活を始めたので、就職先が決まれば、教室に通えなくなる可能性があると話されたことが発端でした。

ただ、それまでの職場には自分として働きづらいマイナス点があり、そのような点がクリアされている職場を見つけ出すこともなかなか難しいだろうし、さらに旦那さんがOKを出してくれるような職場でないといけないという条件があるので、まだまだ先のことになるだろうとのことでした。

また、その時に話されたことの中には、この転職のために勉強して医療事務関係の資格をとったということも含まれていましたが、私には息子さんに対するとらわれを手放した分、自分自身の人生を豊かに生きるための発想とエネルギーがこのお母さんに生じたように感じられ、人間の変容の可能性を目の当たりにしているような気持ちになっていました。

そしてさらに、その後の展開が劇的なものでありました。

それは、転職の話をされてから、1ヶ月位しかたっていない授業の時だったと思いますが、そのお母さんから、新しい職場が決まってしまったので、残念だけれど教室をやめなければならないとの報告がありました。ただその時のお母さんはかなり興奮気味な様子で、上記のような厳しい条件をクリアしてこんなに早く就職先が決まったことは、自分にとっては奇跡のようなことだと語られましたが、詳しく聞いていくと、新しい職場となる病院は応募した段階ではわからなかったのだけれど、応募後、旦那さんにその病院のことを知らせると、偶然それは旦那さんが以前、会社からの健康診断を受けていた所で、そこなら大丈夫だろうと、認めてもらえたとのことでした。

そのお母さんにとっては、旦那さんから認めてもらえるかどうかが最も難しい条件だったようなのですが、それをすぐクリアできると同時に、病院内の雰囲気もいい感じであるということがわかった上で、すぐそこに採用してもらえたということが、長い期間の就活を覚悟していたそのお母さんにとってはまさに奇跡的なことだったと言えるのでしょう。

このような、このお母さんの精神面での健全で前向きな方向への変容と、その変容後の人生の豊かな展開を近くで見させて頂いたことは、「自分が変われば、世界が変わる」という精神世界的な考え方が、やはり間違いではないということを私に実感させてくれる貴重な体験となったのでした。