以前ある人の旅行体験記で、次のような話を読んだことがあります。どんな内容かといいますと、その筆者を仮にAさんとしますと、Aさんはある海外の島へのツアー旅行の途中で、海ガメの卵が孵るところを見る機会があったそうです。

海ガメの母親は砂浜の海から少し離れた場所に、外から襲うことが出来ない安全な巣穴を掘ってそこに卵をたくさん産み、自分はすぐ海へ戻ってしまうので、海ガメの赤ちゃん達は卵から孵ると自力で歩いて、海へ入っていくということだそうです。Aさんは他のツアー客の人達と一緒に、卵のある巣穴から少し離れたところから、海ガメの赤ちゃんが孵るのを見守っていたということでしたが、その時上空には禿鷹だったかと思いますが、そのような鳥が何羽も飛び回っていたそうです。

そしていよいよそれらの卵が割れ始め、海ガメの赤ちゃんの姿が見られるようになりました。すると程なくその中の一匹がヨチヨチと巣穴を出て歩き出したのでした。その時です!上空を飛び回っていた鳥の中の一羽が、その赤ちゃんめがけて急降下してきたのです。それに気付いたAさんは見物人の集団からとっさに飛び出し、持っていた帽子か何かを使ってその鳥を追い払い、そのお陰で海ガメの赤ちゃんは無事海へとたどり着けたということでした。

 

 

 

 

 

 

 

ところがです、そのAさんに対して現地のツアーガイドさんが血相を変えて、何か怒っているように訴えかけてくるということがあり、慌てていて現地の言葉が混じっているようで、Aさんには何のことなのかさっばりわからなかったそうです。するとその直後、驚くべき悲惨な光景がその砂浜の上で展開されたということでした。

それは一匹目の海ガメの赤ちゃんが無事に海へとたどり着いた後、巣穴に残っていた他の赤ちゃん達が一斉に海へ向かって歩き始めたかと思うと、上空にいた鳥達がその赤ちゃん達をめがけて次々と急降下し、海ガメの赤ちゃん達はみな餌食にされてしまったということでした。そしてそのような悲惨な出来事を招いてしまった原因は自分にあり、そのことでツアーガイドさんが怒っていたのだとAさんが知ったのは、後でそのガイドさんからゆっくり聞いた話によってのことでした。

それは海ガメの赤ちゃん達が海に入っていく時、最初の一匹が無事に海へたどり着けたのを安全のしるしとして確認した後、残りの赤ちゃん達が海へと歩き出すという仕組みになっているという話でした。その話を聞いたAさんは、正しいことをしたつもりだったのに結果として大きな間違いを犯してしまった自分の思慮の足りなさを、非常に後悔したというようなことを書いておられたと思います。

私としてはAさんは、目の前の他者の不幸を見過ごしておけないという点で、人間としてはとても優しく、そして勇気もある立派な人であり、責められるような人ではないと感じられます。けれどこの出来事から学ばれるべきことがあるとすれば、それは人間にとって一般的に正しいと思われることと、大自然の摂理とのギャップであり、これは全ての人に共有されるべき学びの課題のように、私には思われます。

よく「人間はもっと自然から学ぶべきだ」というようなことを耳にしますが、これは人間としての正しさを自然の摂理と矛盾のないレベルまで、可能な限り近づけられるように認識を深める努力をするべきだというような意味だと、私には思われるのです。では人間的な正しさと自然の摂理との違いとはどのようなものでしょうか?もちろん一言で言い尽くせるようなものではありませんが、ここで一つだけ私の考えを述べさせて頂きます。

それは海ガメの赤ちゃんの出来事からも洞察出来るように、私達人間は目の前のマイナス要因をただのマイナス要因として捉え、回避したり排除したりすることが正しいと感じ行動してしまいがちですが、人間以外の自然界では一見すると個々の存在にとってはある瞬間にマイナスに見える出来事が、大きな視野を持って見た場合、生態系という大自然のシステムを支えるのに必要な出来事であることの方が多いと私には思われるのです。

私達人間も、本来は自然の仕組みにより生かされている自然界の一員である以上、人間だけが持っている知性の中にも自然の摂理への理解を取り込み、その摂理に沿った在り方をすることが、長い目と大きな視野を持って見れば、人間同志、そして人間界と他の生物界や自然界との関係においても、調和を保つことに繋がるはずだと私には思われます。そして、海ガメの赤ちゃんの話にも見られるような自然の摂理から学ばれるべきことは、老子や荘子のタオの思想の中で、非常によく語られていますし、あるいは「塞翁が馬」という故事成語のもとになった物語の中にも、そのような摂理の一端が見られるように私には感じられます。